ドイツワインの代表的品種であるリースリングの起源は、定かではない。
歴史学的な手法をとるならば、史料に最初にその名が現れるのはいつか、という問題になる
のだけれど、そもそも、言葉は時代とともに移り変わるものなのだ。中世ドイツの史料となる
と、ラテン語、中高ドイツ語、中世低地ドイツ語、さらに地方によって方言があったりして、とうて
いスッパリと断言できるものではない。だから、その起源あるいは語源については様々な説が
ある。

"Ruszlinge" "ruszling" "rissling" "ruessling" "raeuschlinge"など、15世紀以来アルザス以北の
ライン川沿い各地に、リースリングを指すと思われる葡萄品種名は幾度と無く史料に現れる。
現在の研究状況では、最も古い記録は1464-5年、トリアーの聖ヤコブ慈善院−後にナポレオ
ン政権下で市内の他の慈善施設と統合され、フェアアイニグテ・ホスピティエンとなり、現在も
ワインを醸造している−の会計簿であるとされている。

1970年代の終わりころ、トリアー大学・中世史学科で博士論文を執筆中だった若手研究者ミヒ
ャエル・マテウスMichael Matheus氏が、市の古文書館で件の会計簿を調査していた。ワイン史
の研究という訳ではなく、聖ヤコブ慈善院の運営と都市参事会の関係解明が目的だった。数
百年の歳月を経て黒ずんだ手漉きの紙の、やや薄れたインクで書かれた手書きの、ミミズが
のた打ち回ったような文字が紙面を埋め尽くす、読みずらい古文書を一葉一葉分析してくうち
に、彼は以下の記述に出会った。

Item geben xxiiii man dagewerk ruesseling zu setzen in meister Kerstgins olk ye des dages eynen albs in der wochen vor sant Briccius tage"
(同じく24人に、リースリングをケルストギン殿の葡萄畑に植える作業で、一日あたり1アルブスを出費。聖ブリキウスの祝日(11月13日)の前の週)

「おぉい、こいつを見てくれ!」マテウス氏は当時古文書館の係員に、問題の箇所を指して見
せないではいられないほど、たいそう興奮したという。やがて彼はその発見を一本の論文にま
とめて発表("Die Mosel-aeltestes Rieslinganbaugebiet Deutschlands?" 『モーゼル・ドイツ最古
のリースリング栽培地域か?』in: Landeskundliche Vierteljahrsblaetter Jahrgang 26 (1980), S.
161-173)。会計簿中のリースリングの言及を指摘するだけでなく、なぜその時期に聖ヤコブ慈
善院がリースリングの栽培を始めたのかの理由にも迫っている。

彼の説によれば、当時のいくつかの条件が作用している。
一つには、アルザスワインと競合上、ワインの品質を高める必要が生じたという点。聖ヤコブ
慈善院がリースリングを植えた1460年代はじめ、アルザスワインの輸送路であったライン川
が、マインツで起きた権力闘争の影響で通行不可能となった。当時ライン川沿いで主要なワイ
ン市場はフランクフルトとケルンであったのだけれど、マインツでの通行止めで、ケルンのワイ
ン商はやむなくライン川経由ではなく、モーゼル川経由でアルザスワインを輸送した。輸送路
途上最大の都市であったトリアーでも、アルザスワインがこの機会に販売された。

こうしてモーゼルワインは、品質の高い高価なワインとして有名であったアルザスワインとの競
合にさらされることになった。慈善院にとってワインは自家消費用だけでなく、販売を通じての
主要な収入源(全収入の15-30%)であったから、その売れ行きは死活問題となった。そこで市
場での競争力をつけるべく、リースリングが導入された、という訳である。

もうひとつ、アルザスワインとの競合に加えて、15世紀の気候の寒冷化による葡萄の不作か
ら、ビールの生産が伸びた事も指摘されている。中世都市では衛生的な飲み物といえばワイ
ンかビールしかなく、水は当時水洗トイレや下水道はなかったから、路上に打ち捨てられた排
泄物などで汚染されているリスクが高かった。15世紀半ば、葡萄の不作でワインが出来なかっ
た年が続くと、トリアーの市当局自らビール醸造に乗り出したほど、市民生活にとってワインと
ビールは欠かせないものであったのだ。現代のドイツでワインとビールが美味しいのも、こうし
た背に腹は換えられない、切羽詰った事情が背景として存在したのである。

また丁度その当時、ホップ利用の一般化とビール製造技術の向上、そして保存可能期間の長
期化といった技術革新があり、ワインよりも安いビールの消費量が、とりわけライン川下流で
急増した。かつてはハンザ都市同盟のワイン倉とまで言われたケルンが、ワイン中心の都市
からビール中心の都市へと変化したのも、このころである。

かくしてモーゼルワインはアルザスワインに加えてビールとの競合することになった。さらに、
15世紀には醸造過程で二酸化硫黄の使用が一般化し、ワインの品質向上を促した。聖マクシ
ミン修道院が、ルーヴァーにある南向きの斜面(現在のマキシミン・グリュンホイザーの葡萄
畑)で葡萄栽培に本格的に取り組みはじめたのも、ほぼ同時期15世紀末からである。

トリアーの聖ヤコブ慈善院のリースリング導入は、こうした様々
な状況の一側面であると同時に、当時の社会全体の状況を反
映したものなのだ。また、同時に指摘しておきたいのは、聖ヤ
コブ慈善院の運営は、トリアーの市参事会の会員が主体となっ
ていた聖ヤコブ兄弟団があたっていたという点である。市参事
会はハウプトマルクトの一角にあるシュタイペと呼ばれる集会
所で、定期的に会議と宴会を開催していた。それ故、現在もこ
の建物の一角には聖ヤコブの像が据えられている。

そして、聖ヤコブ慈善院は、現在のフェアアイニグテ・ホスピテ
ィエン−日本語に直訳すれば、統合慈善組合とでも言うのだろ
うか−として、曲がりなりにも存続している。この醸造所の入り
口には、トレードマークとしておなじみの、巡礼の守護聖人であ
る聖ヤコブの立像が掲げられている。

中世、あるいはローマ時代以来のワイン造りの伝統は、今日もしっかりと受け継がれている。
2003年版のゴー・ミヨのドイツワインガイドでは、ホスピティエン醸造所は待望の葡萄の房1つ
を獲得した。
「いや、まだまだこれからが本番だよ。」と、醸造所責任者のアルンス氏は言う。1999年に醸造主任が若手に交代し、伝統的な木樽(フーダー)とステンレスタンクの併用から、100%ステンレスタンクに切り替え、収穫の選別を厳しくするなど、現代的なワイン造りに取り組んでいる。おそらくモーゼルで最初にリースリングの葡萄を植えた伝統は、今日に至るまでその進取の気性を保っているといえるかもしれない。

伝統と革新、その両方が両輪となり、ドイツワインはいまも発展を続けているのである。

(2003年4月)





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