秋の収穫時期は、どの醸造所にとっても一年で一番大事な時だ。
ワインの出来は葡萄で決まる。それは当然ながら醸造所の経営を決定的に左右する。
収穫直前、毎日畑を見回っては葡萄の熟し具合を観察し、天気予報を睨みながら、あるいは
近隣の醸造所の様子を伺いながら、収穫開始のタイミングを計る。9月中旬、毎年トリアーで
開催されるVDPの競売会で、今回訪れたツィリケン醸造所のオーナー兼ケラーマイスターのハ
ンス=ヨアヒム・ツィリケン氏に会った。その時彼は葡萄の順調な成熟に上機嫌だったが、「だ
んだんナーバスになってきているよ」と言っていた。きっと、入試や面接を目前に控えた時のよ
うな心境に違いない。

だから、今回僕たちの訪問を受け入れてくれるかどうか、聞いてみるまで予想がつかなかった
し、断られることを半ば覚悟していた。とある醸造所に予約を取るために電話した時、応対に
出た奥さんには、「あなたね、今は一年で一番大事な時なの。みんなで力をあわせて、全力を
尽くさなければならないのよ!」と、気合いを込めて断られてしまった。おそるおそるツィリケン
醸造所に都合を聞いてみたところ、奥さんルースさんが、「ご承知の通り収穫で忙しいから、1
時間くらいしか時間は取れないけれど、許してね。」と、心なしか疲れた声でOKをくれた。許す
もなにも、ラッキー!である。



貴重な時間を頂いたのだからと、約束よりも少し早くザ
ールブルグの町はずれにある醸造所の前に着いた。住
宅地の一角で、通りから見ると、まるで普通の一軒家に
しか見えない。さりげなく玄関の扉脇にあるVDPのプレ
ートが、そこがトップクラスの醸造所であることを物語っ
ている。時間が来るまで、僕たちはその前にしばらく佇
んでいた。あと3分、2分、1分。時間だ。呼び鈴を押し
て、息をころすようにして、誰かが扉を開けてくれるのを
待つ。向こうに人の気配がして、扉が開いた。そこに笑
顔で立っていたのは、ご主人のハンス=ヨアヒム・ツィリ
ケン氏だった。
(ツィリケン醸造所のベランダに立つツィリケン氏。背景の奥にザールブルガー・ラウシュの畑がみえる。)

『蝶々の様な Schmetteringhaft』−ハンス=ヨアヒム・ツィリケン氏は、自分のワインを蝶々に
例える。あるいはまた、ワインの個性を『繊細さの塊 Konzentration der Feinheit』とも表現す
る。それは彼の造るワインの本質を言い当てている。ツィリケン醸造所のワインは、決して重く
ない。そして、押しつけがましい所がない。宙を舞う蝶の様に軽やかでありながら、精妙なフル
ーツとミネラルの調和に満ちている。舌の上をやさしく舞う、上品なリースリングだ。

個性的な味わいの背景には、ザールブルガー・ラウシュ、オックフェナー・ボックシュタインとい
う畑のもたらす味もある。しかしそれだけではない。造り手と、地下深くに並ぶ木樽なしには、ツ
ィリケン醸造所のワインは語りえない。

「ワインは数字では造れない。どんなワインに仕上げたいのか、そのイメージが大事なんだ。」
とツィリケン氏は言う。彼のイメージを具体化する場所が、一見普通の住宅に見える醸造所
の、地下3階にまで達するケラーである。醸造所はザール川に向かって下る斜面に位置してい
る。だから通りに面した玄関を一階とすると、地下一階は裏庭の斜面にあたる地上に出てい
る。そこは葡萄の圧搾機が一台−10haの畑を所有しているにしては、ずいぶん小ぶりにみえ
る−と清澄タンクが並ぶ、ガレージの様な場所だ。折しも丁度葡萄を圧搾中だった。水平に横
たわるシリンダーから、絶え間なく絞り出されている褐色に濁った果汁は濃厚で甘く、手がベト
ベトになるほどだ。糖度は約90エクスレ、酸度は8g/L。だが、その日の収穫はまだ最上の区画
ではないという。2003年産はきっと素晴らしいワインになるだろう。

垂直にそびえる清澄タンクに一晩静置された果汁は、重力で自然に不純物が沈殿し、上澄み
と分離する。このワインとなる上澄みは、ホースを伝って地下二階と三階に並ぶ樽へと導かれ
る。
樽は長年使い込まれた伝統的な約1000リットル入りのフーダー樽で、およそ50年は使えるという。裸電球に照らされた薄暗い空間の天井は低く、絶えず水滴がしたたり落ちている。年間を通じて気温9度、湿度100%。ここで瓶熟成しているワインは、10年以上を経てもほとんど目減りしないという。数日前に収穫された果汁が発酵中で、樽の上の穴をふさぐ水の入った容器から二酸化炭素が逃げていく、ゴボリ、カタカタ、ゴボリ、カタカタという音があちらこちらから響いていた。




居間に戻り、ルネッサンス期のものだという重厚なテーブルについて、試飲へと移った。
まずは2002年が初リリースのキュベ、『バタフライ』と『バタフライR』の比較。エチケットの上にも
蝶が描かれたそのワインは、食事にあわせて飲むことを目的にして、ツィリケン氏のイメージ
から造りだされた。「『蝶々の様な』というからには、アルコール度が高すぎてはだめなんだ。ア
ルコールはボディを重くする。辛口であっても11.5%を超えたら、私のイメージとは違ったワイン
になってしまう。」と彼は言う。

どちらも柔らかな優しい口当たりで、この醸造所の個性がよく出ている。普通の『バタフライ』は
シュペートレーゼ辛口、『バタフライR』はアウスレーゼ辛口に相当するが、前者が6ユーロ(約
900円)に対して後者は15ユーロと、2倍以上も違う。「今にして思えば『バタフライ』は安くしすぎ
たよ。初リリースだったし、売れ行きがどうなるか不安だったからね。でもジャーナリズムが注
目してくれたお陰で、リリースから2ヶ月で完売したんだ。」と、嬉しそうだった。6月にも比較試
飲したが、その時は2つの差は価格ほどではないと思われた。しかし今回は、その差が少し広
がったようだ。『バタフライR』はスケールが大きく、深みを少し増している。あと数年は成長を
続けるだろう。

次に2002年のツィリケンQbA、2002 ザールブルガー・
ラウシュのカビネットと続く。ラウシュのカビネットは、
まさにバタフライ。軽やかで繊細、チャーミングで素
直。押し付けがましいところもなく、どこまでも優しい。
これぞツィリケンといったところか。その次に1993年の
ラウシュのシュペートレーゼ。10年間の熟成を経ても
若々しさを感じるが、熟成香により複雑さを増してい
る。目減りはほとんどない。「私なら、こうした熟成感
のあるワインはジビエにあわせて飲みたいね。」とツィ
リケン氏。自宅で知人を集めてパーティをする時な
ど、どの料理にはどんなワインが合うかを色々試して
いるのだそうだ。「イメージと違っていたら、別のビン
テージをちょっとケラーまで降りて、取って来るんだ。」
という。醸造所ならではの楽しみである。

(ハンス=ヨアヒム・ツィリケン氏。彼のイメージと技から、個性的な
ワインが造り出される。)

さらに2002年産ラウシュのシュペートレーゼ。『繊細さの塊』という表現がまさにぴったりの、た
っぷりとしてフルーティかつ繊細で多面的、複雑な甘口。赤みを帯びたシーファー土壌のもたら
す柔らかいミネラル感と白桃の甘い香りが、なんとも魅力的。次に1983年のラウシュのアウス
レーゼ。20年の熟成を経て研ぎ澄まされた、凛とした奥行きのある古酒で、力強い。さらに
2002年産ラウシュのアウスレーゼ。ピュアでエッセンス的、気品と繊細さの塊、一滴一滴から
香りたつ甘み。これで終わりかと思いきや、さらに1989年産ラウシュのアウスレーゼ・ゴールド
カプセルが出てきた。完成されたワインとは、こういうワインを言うのだろうか。金色の輝き、奥
深い香り、口に含むと力強く広がるが、複雑な甘み、酸味、ミネラルのどの要素をとっても出す
ぎたところがなく、完璧な調和を保っている。その充実した味わいには『偉大な』という言葉が
ふさわしい。「ひざまづいて飲むべし」−確か文豪ビクトル・ユゴーはル・モンラッシェをそう評し
たというが、この1989産ザールブルガー・ラウシュもまた、その価値がある。



最初の1時間という約束はどこへやら、僕たちは時間の経つのをすっかり忘れて、すっかり銘
酒の波に浸っていた。その夜、とあるレストランで食事の際、さっそく1990年産のリースリング・
シュペートレーゼと、2000年産のシュペートブルグンダーの辛口赤を同時に飲んでみた。結果
は、熟成したリースリングの圧倒的勝利。いまひとつ冴えない赤ワインだったということもある
が、リースリングの熟成感とほどよく枯れた甘みが、鹿や豚などそれぞれの料理に快適なアク
セントを付け加え、調和していた。

熟成したリースリングほど、料理を引き立てるワインは無いのではないか。料理にあうワインと
して、若い辛口白や赤が半ば常識として浸透しているのは、結局のところ大量生産されたワイ
ンを売りやすくするための方便に、消費者がうまく乗せられているだけなのではないのか。
ツィリケン醸造所訪問の後、僕はそんなことを考えている。



Weingut Forstmeister Geltz Zilliken
Heckingerstr. 20
54439 Saarburg
Tel. +49 (0)6581 2456
Fax. +49 (0)6581 6763
Email: info@zilliken-vdp.de
訪問:予約のみ。


(2003年11月)





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