ツィリケン醸造所を後にした僕達は、大急ぎで一路カンツェムへ向かった。
フォン・オテグラーヴェン醸造所は、カンツェムの村とはザール川を隔てて反対側の葡萄畑−
カンツェマー・アルテンベルク−の麓にある。

ザール川とモーゼル川の合流点のおよそ5kmほど上流で、北東へと鋭く向きを変える。そこからおよそ3km、ヴィルティンガー・ブラウネ・クップの畑に突き当たるまで、ほぼ真っ直ぐに流れ、再び鋭角に曲がって南へと向きを変える。カンツェマー・アルテンベルクの畑は、この3kmほどの直線区間の一部に沿って聳える、南東向きの斜面一面に広がっている。その最大傾斜度は60度以上に達し、日照に非常に恵まれている為、いまだかつてアイスワインが出来たためしがないという。
ヴィルティンガー・ブラウネ・クップの前で180度向きを変えるザール川。右奥がカンツェマー・アルテンベルクの畑。



遅刻すると携帯で伝えて時間よりも少し早く着いた為か、呼び鈴
を押しても返事がない。僕達は醸造所の中庭で、なすすべもなく
しばらく佇んでいた。葡萄畑の上空から聞こえてくる鳥の声の長
閑さとは対照的に、裏庭から葡萄の圧搾でも行っているらしい騒
音が響いていた。線路の向こうに広がる葡萄畑の中腹では、収
穫作業をしている人たちが小さく見える。もしかすると、オーナー
のハイディ・ケーゲルさんもあの中に混じっているのかもしれなか
った。そのうち、トラクターに乗って大急ぎで駆けつけてくるのでは
ないかと思われた。




(夕刻、収穫作業を終えてアルテンベルクの畑から醸造所に戻る人たち。)

ハイディ・ケーゲルさんは、1995年までケルンにある病院の麻酔科の医局長として働いていた、女医である。その年の末、フォン・オテグラーヴェン醸造所を長年指揮してきた、彼女の叔母にあたるマリア・フォン・オテグラーヴェンが95歳の長寿を全うした。60年代、70年代には極上のザールワインを次々と世に送り出していた彼女だが、子宝に恵まれなかったため、姪のハイディを養子として迎えた。主のもとに召されるにあたり、マリアは幼い頃から醸造所で育てていた、ハイディ・ケーゲルさんに醸造所を遺産として託したのである。

仕事を続けるか、それとも醸造所を継ぐか。彼女は当初相当悩んだという。病院の医局長といえば、地位も名誉も、そして収入も申し分ないポジションである。しかし一方では、昼夜を問わず負わなければならない、責任の重さから来るストレスにも苦しめられていた。醸造所の経営を誰か適任者に任せようか。しかし、それでは叔母の遺志に沿わないのではないか。醸造所と将来の生活設計を案じ、眠れぬ夜が続いた。
(現オーナーのDr. ハイディ・ケーゲルさん。)



結局、彼女はカンツェムに戻ってきた。1996年10月のことである。だが、医師として成功してい
ても、葡萄栽培・醸造技術はもちろん、醸造所経営に関しても何一つ経験の無い、全くの素人
だった。「何をどうしたらいいのか、皆目見当がつかなかったわ。」ケーゲルさんは当時を振り
返って微笑えんだ。
折りしも、1980年代の醸造所のワインの評判は
最低だった。当時、リースリングを効率のいい交
配品種に植え替えるなど、醸造所は目指すべき
方向を見失っていた。そのころのワインは平べ
ったくて退屈な味しかしない、と酷評された。

かつて60年代70年代半ばにかけて−とりわけ
1969, 1971, 1973, 1975−は、ザールで最も輝か
しく、最も美しいワインの一つだったという。

あの輝かしいワインはどこへ行ったのか、アル
テンベルクという最上の畑を持っているのだか
ら、もっとましなワインが出来る筈だろうに、とい
う声も彼女の耳に届いた。しかし、一体どうした
ら、昔の叔母が造っていたような、見事なワイン
を造れるというのだろうか?
(カンツェマー・アルテンベルク全景。フォン・オテグラーフェン醸造所の他、ビショフリッヘ・ヴァインギューターとホスピティエン醸造所など、複数の所有者がいる。最上の区画を貫いて走る道路の建設が計画されたこともあったが、ケーゲルさんの必死の反対で中止となった。)



「ベルンハルト・ブロイヤーさんに相談してみたらどうです?」
とあるアメリカのワイン商が、そうアドバイスしてくれたのが、醸造所が再び軌道に乗るきっか
けだった。ゲオルグ・ブロイヤー醸造所のオーナーで、ラインガウきっての腕利きの醸造家の
一人でもあり、テロワールを何よりも重視する哲学を持っているブロイヤー氏が、フォン・オテ
グラーヴェン醸造所のコンサルタントとなったのは1997年。その年、カンツェマー・アルテンベ
ルクを『エアステス・ゲヴェクス』−ブルゴーニュのグラン・クリュに例えた独自の畑の格付け−
とした。そこからの厳選した収穫を辛口ワインを仕立て、醸造所のフラッグシップに位置づけ
た。また、平均収穫量を45hl/ha前後に抑え、7割前後を辛口にした。この方針は的中し、由緒
ある醸造所に復活の兆し、と評判になった。

ところが、翌1998年の収穫期は寒く雨がちで、難しい年だった。前年の評判をさらに伸ばすこ
とが出来ず、そのストレスと無力感からか、それまで勤めていたケラーマイスターは、ある日突
然辞めてしまった。翌年、ガイゼンハイム専門大学の醸造学科を卒業したての若者、シュテフ
ァン・クラムル氏が、この400年近い伝統を持つ醸造所の門を叩いた。バイエルン出身の彼は
ワイン農家に育った訳でもなく、ただ純粋にワインが造りたくてガイゼンハイムで勉強したのだ
という。ラインガウのウェゲラー醸造所で実地研修を経ているが、ワイン造りの経験は浅い。し
かし、素晴らしいワインを造るには、必ずしも長年の経験を必要とするとは限らない。それは、
彼のワインが何よりも雄弁に証明している。

ややシンプルながら力強く舌に訴える2002年のグーツリースリング(2002 Gutsriesling 
trocken)、濃いめでフルーツと酸味のバランスがいい『マキシムス』(2002 Maximus)−創業者
の名前をとった、セカンドラベルに相当する位置づけの辛口リースリングである−、ミネラルが
がっしりとして複雑、アフタの長いオックフェナー・ボックシュタイン2002 Ockfener Bockstein
(『格付畑』Klassifizierte Lageという、アルテンベルクに次ぐ上級畑の位置づけ)、中身の詰まっ
た、凝縮感のある、アフタの長い2002 カンツェマー・アルテンベルク Kanzemer Altenberg 『エ
アステ・ラーゲ』Erste Lage−アルテンベルクの中でも最も傾斜が急で、35〜40歳前後の古木
が植わっている一角を区別して収穫したもの−に至るまで、おしなべて説得力がある。個々の
畑の個性の違いがもう少し明確に表現されるようになれば、さらに言うことなしだろう。

甘口もまたクリーンでフルーツ感が豊か、調和と奥行きが感じられる。とりわけ2002年産カンツ
ェマー・アルテンベルクのリースリング・カビネットは、透明感のある輝くようなフルーツで、繊細
かつ上品。カビネットでありながら、アウスレーゼの気品を漂わせていた。また、クラムル氏が
この醸造所で初めて手がけた、1999年のカンツェマー・アルテンベルクのVDP競売用リースリ
ング・シュペートレーゼは、フルーツとミネラルの一体感と奥行きが印象的な、素晴らしいもの
だった。2001年産の同アウスレーゼは、非常に濃厚で重く堅く、閉じていたが、それは同時に
このワインの熟成能力の大きさを物語っていた。



僕たちが通された醸造所の一角にある試飲室は、8角形のソラリウムといった趣で、大きな窓
の向こう側に鬱蒼とした森に囲まれた緑の芝生が広がり、天使の石像の脇には色とりどりの
花が咲き乱れていた。隅々まで手入れが行き届いたその様子からは、オテグラーヴェン一族
の裕福さが見て取れた。

最上のテロワールを持つ畑と、豊富な資金力、腕利きのコンサルタントに、やる気に溢れた若
手ケラーマイスター。素晴らしいワインを造り出す条件は整っている。眠れる獅子に例えられて
いた醸造所は、かつての麻酔科の女医の手で、ゆっくりと、しかし確実に目を覚ましつつある。
往年の栄光を取り戻す日も、そう遠くないだろう。



Weingut Von Othegraven
Weinstrasse 1
54441 Kanzem
Tel. +49 (0)6501 150042
Fax. +49 (0)6501 18879
Email: von-othegraven@t-online.de
訪問可能時間:月−金 8:00-17:00 
その他の時間は要予約


(2003年11月)





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