1. アウソニウスの生涯
アウソニウス(Decimus Magnus Ausonius)は310年頃、ボルドーの田舎医者の家に、四人兄弟の上から二番目の息
子として生まれた。母は地元ヘデウィ族の有力者の娘だった。理由は定かではないが、彼は乳のみ子だった頃から 祖母マウラの元で育てられた。マウラはアウソニウスを厳しく躾けた。行儀の悪さを叱られて泣きべそをかいている 時、母の妹であるヒラリアがいつも慰めてくれた。年頃を過ぎても結婚しなかった彼女にとって、アウソニウスは実の 息子同然だった。
幼少からラテン語とギリシャ語の勉強を始めていた彼は、10歳の頃トゥールーズで文法と修辞学の教師をしていた叔
父の元に送られた。故郷を離れての生活にも慣れて5, 6年が過ぎたころ、ある時コンスタンティヌス帝の兄弟と知り 合った。それが皇帝の家族との付き合いが始まるきっかけだった。20歳の頃、叔父は皇帝の子息の教育係としてコ ンスタンティノープルに招聘された。師を失った彼はボルドーに戻り、そこで修辞学の勉強を終え、教師の傍ら弁護士 として働き、結婚して3人の子供をもうけた。妻には若くして先立たれ、長男を幼くして亡くすという不幸はあったが、 そうして瞬く間に30年間が過ぎ去って行った。
平穏な人生でそのまま終えるかに見えた55歳の頃、大きな転機が訪れた。364年に帝位に就いたヴァレンティニア
ン一世から、幼い子息グラティアン−359年生まれだから、365年頃にアウソニウスが招聘された当時は6歳位−の 教育係として、当時西ローマ帝国の首都だったトリアーに呼ばれたのである。ゲルマン民族の支配する地区との境 界であるライン河にも近い危険な地域で、ボルドーからすれば地の果てに赴くにも等しかったに違いない。
それから20年以上に渡るトリアーの宮廷での生活は、アウソニウスにとって人生の頂点とも言えるものだった。皇帝
の側近の一人として勅書の執筆に関わっていた彼自身みならず、息子をはじめとする一族もまた、執政官や財政長 官の要職に就いた。やがてヴァレンティニアン一世の後を継いだグラティアンが383年に殺害されて帝位を奪われる と、アウソニウスもまた遅くとも388年には故郷のボルドーへと帰ることを許され、393年頃に80余年の生涯を終える まで著作を続けた。
2. モーゼルを讃える詩『モゼラ』
彼の代表作である『モゼラ』は、371年から375年の間に創作された。戦乱の続く帝国領の辺境にあって、平和と繁栄
を謳歌する美しい土地であることを描くように、という皇帝からの依頼による詩であると言われている。それはやがて 帝位を継ぐべき息子達の郷土愛を育むためとも、自らの政治手腕を宣伝する目的だったともされる。
その詩は霧に覆われたナーエ河を遡るシーンから始まっている。ゲルマン民族との戦闘による死者が野ざらしになっ
ている荒野を過ぎ、フンスリュックの森林を抜け、やがてノイマーゲンでモーゼル河の流れる渓谷に出会う。
アウソニウスは河に生息する様々な魚達を数え上げた後、視線を水上に移して葡萄畑を描写する。
やがて詩はモーゼルに映える葡萄畑を描写する。この詩で最も有名な箇所だ。
アウソニウスの詩は、モーゼルでは既に370年頃からワインが造られていたことを示唆している。その当時から1600
年以上の歳月が流ているが、彼の描いた光景は今もそれほど変わっていない。
補足:上記日本語試訳は、ラテン語原詩と複数のドイツ語訳を参照しながら意訳したものですが、文法的に厳密に見
た場合誤りがあると思います。お気づきの点などありましたらメールにてご指摘・ご指導頂ければ幸いです。
参考文献:
Paul Draeger, Ausonius "Mosella" Leteinisch/Deutsch, Trier 2001
Karl-Josef Gilles, Bacchus und Sucellus. 2000Jahre roemische Weinkultur an Mosel und Rhein, Briedel 1999
Bertold K. Weis, Ausonius "Mosella", Darmstadt 1989
Lexikon des Mittelalters Bd. 1, Art. "Ausonius"
(2004年8月)
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