彼が自ら死を選んだはっきりとした理由はわからない。ナイーブな完壁主義者であったことと、2003年産に対する一
部評論家の酷評、アメリカに輸出したワインが瓶内二次発酵を起こしたことなどが、その動機だったのではないかと 言われている。ヴィニンゲン村を囲むように広がる急峻な段々畑の上をまるで空を突き抜けるように渓谷をまたぐ陸橋 がある。彼はそこから宙へと舞った。周囲の目にはその直前まで普段と変った様子が見えなかっただけに、彼を知る 人々への衝撃も大きかった。その後、醸造所は奥さんと息子達−二兄弟の弟は今年ガイゼンハイムで醸造学を学び 始めた−が継続することになったが、ラインハルトさんのような完成度の高いワインを造り出すことは容易なことでは ないうえ、一家には醸造に関する専門家が至急必要なことは明らかだ。しかし、一体誰が救いの手を差し伸べるの だろう....。
散歩しながらもの思いに耽っているうちに、約束の時間になった。中から出てきたのは、8月から新しくケラーマイスタ
ーになったフェルク氏だった。遠視メガネをかけているので目がクリクリと大きく見える、人当たりのいい若者だ。オー ナーをはじめみんな出払っていたので、ケラーの清掃をしていた彼が相手をしてくれることになった。19世紀初めまで イエズス会の修道院だった醸造所は、日本で言えば重要文化財に指定されている。その一室で僕達はマホガニー のテーブルに座り、2003年産のヴァイスブルグンダーから試飲を始めた。特注したという大振りなグラスいっぱいに 様々な香りが渦巻く。グレープフルーツ、カリン、オレンジの蜂蜜、アーモンド....大抵の若い白ワインは借りてきた猫 のように大人しいが、この醸造所のワインは違う。緻密で複雑で、雄弁に語って止まることを知らない。それは平均収 穫量を大半の醸造所の半分以下である35hl/haにまで切り詰めるとともに、完熟するまで忍耐強く収穫を待ち続けた 成果である。
二本目に移ろうとしたところで、ニエヴォドニツァンスキー氏息を弾ませて現れた。
「遅くなって大変申し訳ありません、所用で外出していたものですから。」
2メートル近くある長身をかがめて恐縮している様子からは、4年前に破産して売りに出ていた醸造所を購入し、大金
持ちの道楽息子が始めた常識外れな葡萄栽培−極端な低収穫量と遅摘み−に対する周囲の批判に屈せずに、理 想とするワインを目指す強靭な意志の持ち主であることは窺い知れない。しかし一度話し始めると熱意を込めて雄弁 に語り聞き手を引き込むとともに、時折波間に見え隠れする岩場のように頑固一徹な面を覗かせる。
余談だが、この醸造所に限らず、最上の畑を買い足すのは野心的な醸造所に見られる近年の一般的な傾向であ
る。ニエヴォドニツァンスキー氏はこうした最上の畑から「喉の奥にまで香りの広がる、凝縮感のあるワイン」を造るこ とを目指している。その為の収量削減である。一本の木に母枝1本、そこから枝が5〜6本伸びる。各枝に残す房は 2つ。7割近くを9月に切り捨てた。もっとも、今年はちょっとやりすぎたかな、と作業を終えた後で少し後悔したそう だ。
「畑で出来ることに比べれば、ケラーで出来ることは無に等しいです。」彼は葡萄を口に放り込みながら言った。
「しかし、それなら何故コルマン氏を解雇したんですか?あなたの言うとおりなら、醸造は誰がやっても大差ない筈で
すが。」
ゲルノート・コルマン氏はニエヴォドニツァンスキー氏が醸造所を購入した当初から2003年産までケラーマイスターだ
った若手醸造家である。例え極上の素材であっても、それを生かす腕がなければ無駄になってしまうことは、料理に あてはめれば容易に想像がつく。果汁の性格を的確に把握し、ワインの育つ方向を決めて適切に処置することは、 何よりも才能と経験を必要とする。醸造所の評価を落とす要因の一つがケラーマイスターの引退であることは、ギュ ンター・シュヴァルツ氏の去ったミュラー・カトワール醸造所が好例である。
「およそ100年前、農薬も化学肥料もなく人為的に発酵を止める術を知らなかった頃、ザールのワインはほとんどが辛
口でした。そうしたワインが当時ボルドーのシャトーものよりも高い評価を得ていたのです。」
彼の目標はその当時の名声を復活させることにある。2004年の収穫は大半の醸造所よりも1週間遅い11月19日の
金曜日に終えた。収穫最後の週、天気予報では週末からの長雨が予告されていた為、通常10人前後で行う収穫作 業に34人を駆り集め急ピッチで行った。果汁糖度は全てアウスレーゼの基準を超え、遅摘みによる豊かなアロマと熟 した酸の素晴らしいモストが得られたそうだ。平均収穫量は33hl/haと、猛暑で自然に収穫量の低くなった2003年よ りも結果的にさらに低くなった。2004年産は偉大なザールワインの復活へむけて、また一歩踏み出すことになりそう だ。
先週末、ゴー・ミヨのドイツワインガイド2005年版が発売された。ファン・フォルクセン醸造所の評価は相変わらず房2
つだが、2003年産のヴィルティンガー・ゴッテスフス・アルテ・レーベンが中辛口のカテゴリーでドイツのベスト6に選 ばれていた。パラパラとめくっているうちに、ラインハルト・ウント・ベアーテ・クネーベル醸造所の項目に目がとまっ た。醸造所の評価は房4つで変っていないが、コメントはラインハルト氏急逝への弔辞に近かった。
『9月末にラインハルト・クネーベル氏が自ら死を選んだとの知らせは、彼とその直前に顔をあわせた人々にとって全
くの寝耳に水だった。我々自身、そのほんの数日前に彼と共に醸造所のワインを試飲したばかりだったのである。そ の時、このとても繊細な醸造家が、まもなく死へ赴くような気配はどこにもなかった。外見からはそのきっかけとなる ような兆候は、全く何も見出だせなかったのである...。』
そこまで読んで、僕はため息をついた。そしてさらに読み進んだ。
『...最初のショックを乗り越えたベアーテ・クネーベルさんは、醸造所を継続することを決意した。ワインコンサルタント
であるゲルノート・コルマン氏の支援を得て、2004年産はラインハルト・クネーベル氏のスタイルを踏襲したものとなる はずである。』
あ、と思った。ファン・フォルクセン醸造所の元ケラーマイスター、あの人の良い若手醸造家コルマン氏はクネーベル
醸造所に活躍の場を見つけたのだ。彼の実力はニエヴォドニツァンスキー氏とともに手がけたワインで証明済みであ る。僕はすこし安心した。しかしラインハルト氏の完成度に到達することは難しいだろう。同じ畑の収穫を、同じ設備で 同じ様に醸造しても、全く同じ酒にはならない。勿論生産年による影響もあるが、酒にはそれを醸した造り手の筆跡 がある。筆跡を真似することは出来ても、同じものにはならない。
いずれにしても、ファン・フォルクセン醸造所という共通の接点を持つ二人の醸造家、フェルク氏とコルマン氏の手腕に
期待したい。
(2004年11月)
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