ホスピティエン醸造所を訪れた後、僕達はファン・フォルクセン醸造所へ向かった。午後に入ると朝から降り続いていた小雨が上がり、黄色く色づきかけた木立が薄雲を通して降り注ぐ陽光に輝いていた。醸造所の前で車を止め、ヴィルティンゲンの村を散歩した。とある屋敷で葬儀が行われているのが見えた。喪服姿の人々が大勢集まっているにもかかわらず、あたりは不思議な位の静けさに包まれており、秋の午後の落ち着いた空気に馴染んでいた。先日亡くなったヴィニゲン村の醸造家、クネーベルさんの葬儀もこのような感じだったのだろうか、と思った。


(ファン・フォルクセン醸造所。外壁に据えられた聖母子像が、かつてイエズス会修道院だったことを物語っている。)

彼が自ら死を選んだはっきりとした理由はわからない。ナイーブな完壁主義者であったことと、2003年産に対する一
部評論家の酷評、アメリカに輸出したワインが瓶内二次発酵を起こしたことなどが、その動機だったのではないかと
言われている。ヴィニンゲン村を囲むように広がる急峻な段々畑の上をまるで空を突き抜けるように渓谷をまたぐ陸橋
がある。彼はそこから宙へと舞った。周囲の目にはその直前まで普段と変った様子が見えなかっただけに、彼を知る
人々への衝撃も大きかった。その後、醸造所は奥さんと息子達−二兄弟の弟は今年ガイゼンハイムで醸造学を学び
始めた−が継続することになったが、ラインハルトさんのような完成度の高いワインを造り出すことは容易なことでは
ないうえ、一家には醸造に関する専門家が至急必要なことは明らかだ。しかし、一体誰が救いの手を差し伸べるの
だろう....。



散歩しながらもの思いに耽っているうちに、約束の時間になった。中から出てきたのは、8月から新しくケラーマイスタ
ーになったフェルク氏だった。遠視メガネをかけているので目がクリクリと大きく見える、人当たりのいい若者だ。オー
ナーをはじめみんな出払っていたので、ケラーの清掃をしていた彼が相手をしてくれることになった。19世紀初めまで
イエズス会の修道院だった醸造所は、日本で言えば重要文化財に指定されている。その一室で僕達はマホガニー
のテーブルに座り、2003年産のヴァイスブルグンダーから試飲を始めた。特注したという大振りなグラスいっぱいに
様々な香りが渦巻く。グレープフルーツ、カリン、オレンジの蜂蜜、アーモンド....大抵の若い白ワインは借りてきた猫
のように大人しいが、この醸造所のワインは違う。緻密で複雑で、雄弁に語って止まることを知らない。それは平均収
穫量を大半の醸造所の半分以下である35hl/haにまで切り詰めるとともに、完熟するまで忍耐強く収穫を待ち続けた
成果である。

二本目に移ろうとしたところで、ニエヴォドニツァンスキー氏息を弾ませて現れた。
「遅くなって大変申し訳ありません、所用で外出していたものですから。」
2メートル近くある長身をかがめて恐縮している様子からは、4年前に破産して売りに出ていた醸造所を購入し、大金
持ちの道楽息子が始めた常識外れな葡萄栽培−極端な低収穫量と遅摘み−に対する周囲の批判に屈せずに、理
想とするワインを目指す強靭な意志の持ち主であることは窺い知れない。しかし一度話し始めると熱意を込めて雄弁
に語り聞き手を引き込むとともに、時折波間に見え隠れする岩場のように頑固一徹な面を覗かせる。

「一部の評論家はあなたのワインをザールらしくない、まるで南の暖かい地方のワインのようだと批評していますね。」
「評論家が何を言おうと勝手です。僕にとって大切なのはワインを買ってくれる顧客です。醸造所の生産本数は設立当初の4倍近くに増えていますが、売れ行きは相変わらず好調です。」

基本的にワインジャーナリストは嫌いだと言って憚らないのである。また、彼の目指すのはザールの偉大な畑の収穫で造る偉大なワインである。

「僕が所有しているシャルツホーフベルクはブルゴーニュで言えばロマネ・コンティ、アルザスならクロ・サン・テューヌ。他にもザールで最も急峻な斜面のヴィルティンガー・ゴッテスフスをはじめ、昨年カンツェマー・アルテンベルクの最上の一角を2ha購入しました。」
「そのカンツェマー・アルテンベルクですが、一説によればあなたのお母さん(ドイツ最大のビール醸造コンツェルン、ビットブルガーの創業者の娘)から、誕生日プレゼントに贈られたということですね。」
「それは違います。母にも意見を聞きましたが、『あなたの思うようにしなさい』と言われただけで、購入資金は自分で調達しましたよ。」


(オーナーのローマン・ニエヴォドニツァンスキー氏。)

余談だが、この醸造所に限らず、最上の畑を買い足すのは野心的な醸造所に見られる近年の一般的な傾向であ
る。ニエヴォドニツァンスキー氏はこうした最上の畑から「喉の奥にまで香りの広がる、凝縮感のあるワイン」を造るこ
とを目指している。その為の収量削減である。一本の木に母枝1本、そこから枝が5〜6本伸びる。各枝に残す房は
2つ。7割近くを9月に切り捨てた。もっとも、今年はちょっとやりすぎたかな、と作業を終えた後で少し後悔したそう
だ。

「ワインの味は畑で決まります。収量を抑えるほど畑の個性は明確に
なります。」
だから、畑の世話は徹底的に行う。それは彼の畑を見れば一目瞭然
だ。降雨の多かった今年は大抵の畑で3割前後は茶色く変色した粒
が見られたが、ファン・フォルクセン醸造所の畑の房はどれも健全その
もの。痛んだ房がほとんど無い。かといって窒素肥料や農薬散布を徹
底している訳ではなく、その反対に限りなく有機農法に近い。それは
房や葉の色を見ればわかる。10月半ばも過ぎ、自然な成長過程を辿
っている木の葉や房は黄色く色づきはじめているが、窒素肥料を過剰
に投入した畑は不自然なほど若々しい緑色で、果実の酸度も高い。ま
た、最近とみに注目を集めているビオもシャルツホーフベルクで始め
た。オーナー自身はまだ半信半疑といった様子だが、ビオディナミのア
ドバイザーに依頼して例の魔術的なプレパラートを用いている。



(ファン・フォルクセン醸造所の畑。至る所に切り捨てられた房が散らば
っている。)

彼の運転するオフロードタイプのBMWで畑をまわった。
「ほら、この土を見てください。この細かいシーファーが、シャルツホーフベルクの味を作っているんです。」
そう言って彼は一握りの土くれを手にとり、鼻に近づけくんくんと匂いを嗅ぎ、僕達に差出した。
「匂いを嗅いでみて。わかりますか?少し石油みたいな匂いがするでしょう。この香りがワインにも現れるんですよ。」



(右:シャルツホーフベルクの一角、岩盤が露出した場所のシーファー。容易に砕けるもろいシーファーで、これがワインに独特のミネラル風味を与える。)
そして手近にあった房をもぎ取ると、粒を口にほおばって大きく頷いた。
「う〜ん、素晴らしい!これが偉大なワインになる葡萄の味です。ほら、どうぞ。」
そう言って今度はいくつもの葡萄の粒を手渡した。食べてみると自然な香りが穏やかな酸味とともに広がった。隣の畑の葡萄もちょっと試食させてもらったが、彼の畑に比べてずいぶん緑の濃い房で、相応に酸っぱかった。また、ヴィルティンガー・ブラウンフェルスの房と、その一部で特に優れた一角とされるフォルスの房も試食した。どちらも繊細で香り高いが、フォルスの房の方が味に深みがあった。ワインの味は畑で決まる。それがよく判った。




(ヴィルティンガー・ブラウンフェルスの土。赤みを帯びたシーファーが混じった深い土壌。堆肥として畑に敷いた麦わらが混じっている。)

「畑で出来ることに比べれば、ケラーで出来ることは無に等しいです。」彼は葡萄を口に放り込みながら言った。
「しかし、それなら何故コルマン氏を解雇したんですか?あなたの言うとおりなら、醸造は誰がやっても大差ない筈で
すが。」
ゲルノート・コルマン氏はニエヴォドニツァンスキー氏が醸造所を購入した当初から2003年産までケラーマイスターだ
った若手醸造家である。例え極上の素材であっても、それを生かす腕がなければ無駄になってしまうことは、料理に
あてはめれば容易に想像がつく。果汁の性格を的確に把握し、ワインの育つ方向を決めて適切に処置することは、
何よりも才能と経験を必要とする。醸造所の評価を落とす要因の一つがケラーマイスターの引退であることは、ギュ
ンター・シュヴァルツ氏の去ったミュラー・カトワール醸造所が好例である。

「偉大なワインを造るには情熱が必要です。一緒に醸造所を始めた頃に比べると、彼の情熱は冷めてきていました。僕は情熱のある人とだけ一緒に仕事をしたい。だから、彼とは袂を分かつことにしたのです。しかし別れたとは言え、お互い良い関係は続いています。」
ファン・フォルクセン醸造所を去ったコルマン氏は、ワインコンサルタントとして独立開業したという。

「彼は甘みのあるワインが好きでした。」醸造所に戻り、試飲しながらニエヴォドニツァンスキー氏は思い出すように語った。それが解雇のきっかけであるとは口にこそ出さなかったが、ザールのとある醸造家から聞いた話では、とりわけ寒さの厳しかった今年はじめ、多くの醸造所では発酵が自然に止まってしまった。オーナーは発酵を続けさせて辛口に仕立たかったが、コルマン氏には出来なかった。それがケラーマイスター交代の背景にあるのではないか、ということだった。

もっとも、ファン・フォルクセン醸造所のポリシーとして、培養酵母はご法度である。自然酵母だけによる発酵で畑の個性を120%表現することを目指しているからだ。低温でも活動する培養酵母はあるが、それが使えない。その上、優れた畑からの収穫は伝統的な木樽を用い、ヴァイスブルグンダーにはバリック樽を用いている。停まってしまった発酵を続けさせようにもコルマン氏には打つ手がなかったのかもしれない。あるいは、彼の理解するところの調和のとれた辛口は、やや大目に残糖を残したスタイルであったのかもしれない。
(ヴィルティンガー・ゴッテスフスの畑にて。)

確かに、これまでのファン・フォルクセン醸造
所のワインは気持ち残糖が多いものが多か
った。その日最初に試飲したヴァイスブルグ
ンダーも、香りの複雑さ、味わいの濃厚さが
これだけしっかりしているのだが、普通のブ
ルグンダー系ワインよりも若干甘みが目立
つ。ある意味ではドイツワインらしい個性で
はあるが、あともう少し辛口ならば申し分な
いと思う。また大半のリースリングも中辛口
である。量を低く抑えて完熟させた収穫に由
来する濃厚で香り高い果実味と、たっぷりし
たミネラルは非常に魅力的なのだが、もうあ
と少し、ほんの数グラム辛口ならば、個々の
畑の個性がより際立ったものになるように思
われる。コルマン氏の後任にフランケン出身
のケラーマイスターを選んだのも、辛口が当
たり前の環境で育った味覚に対する期待が
ある。

「およそ100年前、農薬も化学肥料もなく人為的に発酵を止める術を知らなかった頃、ザールのワインはほとんどが辛
口でした。そうしたワインが当時ボルドーのシャトーものよりも高い評価を得ていたのです。」
彼の目標はその当時の名声を復活させることにある。2004年の収穫は大半の醸造所よりも1週間遅い11月19日の
金曜日に終えた。収穫最後の週、天気予報では週末からの長雨が予告されていた為、通常10人前後で行う収穫作
業に34人を駆り集め急ピッチで行った。果汁糖度は全てアウスレーゼの基準を超え、遅摘みによる豊かなアロマと熟
した酸の素晴らしいモストが得られたそうだ。平均収穫量は33hl/haと、猛暑で自然に収穫量の低くなった2003年よ
りも結果的にさらに低くなった。2004年産は偉大なザールワインの復活へむけて、また一歩踏み出すことになりそう
だ。



先週末、ゴー・ミヨのドイツワインガイド2005年版が発売された。ファン・フォルクセン醸造所の評価は相変わらず房2
つだが、2003年産のヴィルティンガー・ゴッテスフス・アルテ・レーベンが中辛口のカテゴリーでドイツのベスト6に選
ばれていた。パラパラとめくっているうちに、ラインハルト・ウント・ベアーテ・クネーベル醸造所の項目に目がとまっ
た。醸造所の評価は房4つで変っていないが、コメントはラインハルト氏急逝への弔辞に近かった。

『9月末にラインハルト・クネーベル氏が自ら死を選んだとの知らせは、彼とその直前に顔をあわせた人々にとって全
くの寝耳に水だった。我々自身、そのほんの数日前に彼と共に醸造所のワインを試飲したばかりだったのである。そ
の時、このとても繊細な醸造家が、まもなく死へ赴くような気配はどこにもなかった。外見からはそのきっかけとなる
ような兆候は、全く何も見出だせなかったのである...。』

そこまで読んで、僕はため息をついた。そしてさらに読み進んだ。

『...最初のショックを乗り越えたベアーテ・クネーベルさんは、醸造所を継続することを決意した。ワインコンサルタント
であるゲルノート・コルマン氏の支援を得て、2004年産はラインハルト・クネーベル氏のスタイルを踏襲したものとなる
はずである。』

あ、と思った。ファン・フォルクセン醸造所の元ケラーマイスター、あの人の良い若手醸造家コルマン氏はクネーベル
醸造所に活躍の場を見つけたのだ。彼の実力はニエヴォドニツァンスキー氏とともに手がけたワインで証明済みであ
る。僕はすこし安心した。しかしラインハルト氏の完成度に到達することは難しいだろう。同じ畑の収穫を、同じ設備で
同じ様に醸造しても、全く同じ酒にはならない。勿論生産年による影響もあるが、酒にはそれを醸した造り手の筆跡
がある。筆跡を真似することは出来ても、同じものにはならない。

いずれにしても、ファン・フォルクセン醸造所という共通の接点を持つ二人の醸造家、フェルク氏とコルマン氏の手腕に
期待したい。


(2004年11月)

以前のVan Volxem醸造所訪問記:2002.2/2003.2/2003.8/2003.10/2004.8

Weingut Van Volxem
Dehenstr. 2  
D 54459 Wiltingen/Saar


Tel. +49(6501)16510
Fax. +49(6501)13106
Email: vanvolxem@t-online.de
HP: www.vanvolxem.de

訪問可能時間:月〜土:8:00-19:00
 (事前の予約が必要です。)


(ヴィルティンガー・クップからヴィル
ティンゲン村の方角を望む。写真左
中央の斜面がゴッテスフス、その奥
がクロスターベルク。撮影2004年10
月21日)





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