「あいてて....!」
彼、フリッツ・ハーグ醸造所のヴィルヘルム・ハーグに手をにぎられたならば、その万力のような握力に思わず叫ばず
にはいられない。彼はいつも顔をしかめる相手の様子を眺めて満面の笑顔を浮かべ、とても嬉しそうだった。彼が笑 顔で手を差し伸べたら要注意だ。今度は、こちらも渾身の力を込めて握り返してやろう。1999年に初めて醸造所を訪 れて以来、いつかその日が来ることをを待ち望みながらもお互いの都合がつかず、6年の歳月が流れた。
2005年5月初旬、ようやく訪問の機会が訪れた。モーゼル中流にあるブラウネベルク村の外れ、対岸にユッファー・ゾ
ンネンウアーを見渡す醸造所を久しぶりに目にした時、中から現れたのはヴィルヘルムの次男、オリヴァーだった。
「親父は今年2月に引退したよ。」
3月に同じモーゼルにあるシュロス・リーザー醸造所でワインを造っているヴィルヘルム氏の長男、トーマスからそう聞
いた時、一つの時代が終わったような気がした。昨年2004年の7月に20年間務めたVDPモーゼル・ザール・ルーヴァ ーの代表を退き、ザールのフォン・ヘーフェル醸造所のオーナーである親友のエバハルト・フォン・クーノウにバトンタッ チしたことは知っていたが、彼がこうも早くワイン造りからも引退するとは、思いもよらなかった。
フリッツ・ハーグ醸造所以外にもいくつもの醸造所で醸造主任が交代した2004年は、モーゼルのひとつの時代の区
切りといっていいだろう。父から子へと世代交代した所もあれば、フォン・シューベルト醸造所の様に気鋭の若手醸造 家を引き抜いた所もある。ファン・フォルクセン醸造所では醸造学校を卒業したばかりの若手を醸造主任として採用 し、1999年から若きオーナーと二人三脚でワインを造っていたゲルノート・コルマン氏はワインコンサルタントとして独 立、急逝したラインハルト・クネーベル氏に代わってヴィニンゲンのクネーベル醸造所で腕をふるい始めた。イミッヒ・ バッテリーベルク醸造所ではわずか2年で再びケラーマイスターが交代し、今度はファルツのフォン・ブール醸造所で 仕事をしていた若手が、自然発酵と畑の土壌改良に取り組みはじめた。ゼルバッハ・オースター醸造所では長年醸 造責任者を務めたオーナーの父、ハンス・ゼルバッハ氏が2005年2月に亡くなり、これまで主に経営を担当していた 息子が醸造により深く携わるようになった。
「醸造主任が一人入れ替わると、玉突きのようにあちこちの醸造所で主任が入れ替わるんだよ。」
ある醸造主任は、この状況そう表現していた。
フリッツ・ハーグ醸造所を訪問した翌6月、トリアー市の商工会議所で恒例のVDP新酒試飲会が開かれた。
ガラス張りの四角い金魚鉢のような空間にテーブルが並ぶ光景は例年と変わっていないが、今年初めて、昨年まで
VDP代表をつとめていたヴィルヘルム・ハーグの姿が無かった。改めて見回すと、やがて醸造所を引き継ぐ若者が、 父親とともに、あるいは一人で、試飲に訪れる人々の相手をしているテーブルが目についた。ラインホールト・ハール ト醸造所、J.J.プリュム醸造所、S.A.プリュム醸造所、ヴィリ・シェーファー醸造所である。彼らをはじめ、近年醸造学校 へ進学する若者が、醸造所とは関係のない家庭からも増えているという。数年前まで支配的だったワイン農業とそれ をとりまくネガティブなイメージ−長時間のきつい労働と低収入−は、次第に変わりつつある。オリヴァーの様な若手 醸造家が注目を集めることで、この傾向はますます強まり、ワイン造りをとりまく環境は活気を増していくことだろう。
(2005年6月)
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