ダーメン・クーネン醸造所のロッシ氏が運転する車がノイマーゲンの橋の袂にあるスーパーの駐車場に乗り入れる
と、すぐ近くの車から一人の青年が降り立ち、僕たちの方へ笑顔で近づいてきた。フリッツ・ハーグ醸造所のオリヴァ ー・ハーグ氏である。そこで僕たちは車を乗り換え、醸造所のあるブラウネベルク村へと向かった。今回の一連の醸 造所訪問は、飛騨高山の坂本酒店の坂本雄一さんのご厚意でご一緒させていただいたものである。醸造所から醸 造所への移動は、それぞれの醸造所のご主人が、まるでバトンをリレーするかのように送り届けて下さった。とあるイ ンポーターさんがアレンジしたというが、素晴らしい連携プレーであった。
フリッツ・ハーグ醸造所に着くと、オリヴァー氏は慣れた様子で僕たちを玄関脇にある試飲所に通し、試飲するワイン
を取りにケラーへ降りていった。そこはちょっとした居酒屋の様な趣で、テーブルが二つあり、10人位は入れるだろう か。
オリヴァーが醸造所を引き継いでから、2005年産が二度目のリリースになる。父ヴィルヘルムと一緒に造ったという
2004年産は見事な出来栄えだったが、2005年産も文句のつけようがない。これは醸造所が所有する畑のポテンシ ャルもあるけれど、その完成度の高さからは、品質への妥協を許さない厳しい姿勢が伝わってくる。
「1に品質、2に品質、3,4が無くて5に品質!(Qualitaet, Qualitaet und noch mals Qualitaet!!)」
それが、オリヴァーの父ヴィルヘルムの口癖であり、同時に醸造所の伝統でもある。
ヴィルヘルムが1958年、20歳で醸造責任を父から任された最初の年、彼はベーレンアウスレーゼの収穫に成功し、
自信満々で父に試飲させたという。だが、しかし。
「だめだ、これは。ウチのベーレンアウスレーゼとしては失格だ。」
果汁は確かにベーレンアウスレーゼの糖度に達していたのだが、フリッツ・ハーグの名にふさわしい品質には達して
いない。それが父の下した判断であった。
それから48年の歳月が流れ、長男のトーマスは隣村のシュロス・リーザーで腕をふるい、次男のオリヴァーが2004
年にラインガウのウェゲラー醸造所の経営主任を辞してフリッツ・ハーグ醸造所に戻ってきた。一時は長男のトーマス に醸造所を継がせるため、シュロス・リーザーから呼び戻そうという話もあったが、結局それぞれ、収まるべき所に収 まったというべきだろう。
「シーファーは御存知の通り、元々は細粒堆積物といって、主にドロや火山灰−泥岩や凝灰岩とも言いますが−が
深い海の底でゆっくりゆっくり堆積した物なんです。」と坂本氏。
「深い海という根拠は、例えば砂や礫のような粗粒堆積物が含まれていないからです。普通、粗流堆積物は、陸から
波浪の力で運搬されるので、大陸棚と呼ばれるような浅い環境−水深0〜150m程度までですね−で堆積します。大 陸棚よりも深い海底に粗流な堆積物が運ばれるのは、まれに大きなイベント、例えば大地震や大津波、隕石の衝突 などの時のみです。
深い海の底には、非常にゆっくり堆積物が堆積します。例えば1000年に0.1cmとか、1cmです。何百万〜何千万年
とかかって数m〜数10m堆積します。酸化鉄の由来は海水中に含まれる鉄分で、酸化環境、すなわち海水中の酸 素濃度が高ければ酸化鉄が生成され沈殿し赤色になり、還元環境、すなわち海水中の酸素濃度が低ければ黒っぽ い細粒堆積物が堆積します。こっちが黒色シーファーです。
海水中の酸素濃度は大気中の酸素濃度と連動しており、長い目で見た地球環境の変動や、南極北極の氷床の増
減、大規模な火山活動の有無、巨大隕石衝突による地球環境の激変や生物大量絶滅など、非常に興味深い分野と 結びついているんですよ。」
う〜む、モーゼルの葡萄畑の至る所に転がっているシーファーも、そんな奥深い背景があったとは。
シーファーの香りとは、数千万年かけて蓄積した時の囁きなのである。
試飲を終えて、僕たちはヴィルヘルム氏の運転で対岸の葡萄畑へと向かった。時間が無いからなのか、それともい
つもの習慣なのか、彼は葡萄畑の背後の森を抜ける簡易舗装された一車線の上り坂を、まるでラリーのように猛烈 な速度で走り抜けた。速度計は80km/hのあたりを前後している。カーブでのシフトチェンジも鮮やかだ。ほどなく木立 がとぎれ視界が開け、ブラウネベルガー・ユッファーの広がる斜面の頂上へと出だ。
「うほぉ!すげえ!!」
坂本氏が思わず声を上げるほど、そこからはモーゼルの流れが遙か彼方まで見渡せる、素晴らしい景色が広がって
いた。棒仕立ての葡萄が急斜面をはるか下まで、奈落の底へと落ち込むように続いている。あまりに傾斜が急なの で、農作業の機械化が不可能なのはもとより、葡萄も棒仕立てで栽培するしかないのだそうだ。小雨が降っていた が、斜面では剪定と整枝を行う人々の姿があった。
頂上を後にし、シュロス・リーザーへ向かう途中、農道で休憩している彼らの脇を通り過ぎた。ヴィルヘルム氏は「ほ
れ、のかんか、のかんか」と手をひらひらと振ると、作業者達は、笑いながら手を振り返した。彼の長男、トーマスの 所有する畑の作業者達で、ポーランドから長年来ているという。その様子からは互いの信頼関係が感じられるととも に、それもまた、ワインの完成度の高い味わいに結びついているのかもしれないな、と思った。
(2006年4月)
|