さて、その教会からブラウネベルク方向に歩いて3分ほど川沿いに、ヴィルヘルム氏の長男トーマスが経営する、シ
ュロス・リーザー醸造所がある。ここを訪れるのは、これが三度目だ。最初の訪問は1999年の夏の事だった。あの 時、フリッツ・ハーグ醸造所を訪れた際予定になかったのだが、ヴィルヘルム氏がここまで来たからにはついで寄って いきなさい、とその場でアポを取ってくれたのだ。ご迷惑じゃありませんか、と聞くと、「なに、息子は父親の言うこと は聞くものだ!かまわん、かまわん。ワッハッハ!!」と、豪快に笑っていた。
トーマスはガイゼンハイムを卒業してほんの数ヶ月後の1992年秋、シュロス・リーザーを買い取ったデュッセルドルフ
の実業家から醸造所を任された。当時は醸造設備も老朽化し、顧客すらいないどん底の状態にあったという。子供の 頃から父親の仕事を見てきたし、その前年にはザールのベルト・ジモン氏のヘレンベルク醸造所でワインを造った経 験があるとはいえ、大学新卒でいきなりの大任である。そんな彼をサポートしてくれたのが、在学中に結婚した奥さ んのウテさんと、ヴィルヘルム氏であった。
ちょうど僕たちにもそうしたように、ヴィルヘルム氏は会う人ごとに、シュロス・リーザーのワインを勧めていたという。
当初無名であった醸造所は、『あの』フリッツ・ハーグの跡取りの造るワインとして、まず興味を持ってもらうことが出 来たのだが、そのスタイルや出来栄えを父親のワインと比較されるのは、避けては通れないことでもあった。しかし次 第にその実力を評価され、わずか5年で一流醸造所のみが加盟を許されるVDPのメンバーとなる。当時はヴィルヘル ム氏がVDPモーゼル・ザール・ルーヴァーの会長であったことも、ある程度有利に働いたかもしれない。しかし加盟に は複数の加盟醸造所からなる理事会の審査承認が必要であり、加盟を希望する醸造所同士の競争もあり、様々な 角度から評価して相応しい醸造所でなければ、加盟を許したVDPへの不信を招くことになる。
もっとも、トーマスがシュロス・リーザーの引き受けるにあたって、親の七光りを当てにしていたとは思えない。むしろ、
一流醸造所の長男として跡を継ぐのが当然と見られていたことに対する、反抗心もあったのではないだろうか。実家 を離れて、一から自分の力で何かを為し遂げてみたいという野心が、一見おっとりとして見える彼の胸の内にはあっ たように思われる。
ヴィルヘルム氏は引退前年の2004年に、トーマスにブラウネベルガー・ユッファーとユッファー・ゾンネンウアーを、合
わせて1.5ha譲った。実家に戻ってくるつもりが無くても、息子である以上長年自分が世話してきた畑からワインを造 ってほしい。そういう思いが、シュロス・リーザーのブラウネベルガー・ユッファーとユッフアー・ゾンネンウアーには込 められているのかもしれない。
比べてみると、畑の個性の違いがよく出ている。リーザー・ニーダベルク・ヘルデンはしなやかで上品な蜂蜜の甘み
に紅茶のヒント。軽やかな気品に満ちているが、果実味が繊細なだけにシーファーの存在感も目立つ。一方、ブラウ ネベルガー・ユッファー・ゾンネンウアーはがっしりとした構造の果実味とシーファーで、繊細であると同時に力強さも 備えている。それぞれのワインに、父と子の気質との類似をみてとってしまうのは、やはり先入観だろうか。
僕は近郊の町ベルンカステル発のバスに乗るため、そこで坂本氏と別れ、一足早く醸造所を辞した。ヴィルヘルム氏
が僕をリーザーからベルンカステルまで送ってくれることになった。
「あと何分だ?」とハンドルを握るヴィルヘルム氏。
「あと5分です。」と僕。ヴィルヘルム氏はアクセルを踏み込み、車は一気に加速した。河岸の国道のゆるやかなカー
ブでは対向車線を突っ切って一直線に疾走し、エンジンの咆哮がギアチェンジの度に甲高く叫んでは低く唸った。僕 は助手席でこのままモーゼルに突っ込むんじゃないかとヒヤヒヤしながら、先刻トーマスが言っていたことを思い出し た。
「日本の気温は今何度くらい?」
「地方によって違いますが...大体20度前後でしょうか。」
「それじゃ、コートを持っていった方がいいよ。」と、彼は父に向かって言った。「もう67歳だから、体には気をつけない
と。」
でも、この疾走ぶりからすると、老人扱いするのは早すぎる。明らかに早すぎる。
「引退したと言っても、まだまだやる事は沢山ある。忙しいよ!」
アクセルをめいっぱい踏み込みながら、ヴィルヘルム氏はいつもの活力に満ちた笑顔を浮かべた。
彼はこれまでもアクセル全開で生きてきたのだ。
そしてきっと、これからも。
(2006年4月)
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