2001年、9月1日。ヴィルティンゲン村の教会の正面にある、かつてイエズス会修道士が住んでいた建物の居間で、二人の青年がおよそ30名を相手に、彼らが初めて造ったワインの説明をしていた。不慣れと緊張とで、時々声が裏返ったように少し上ずっている。2m近い長身で、金髪を後ろで結わえた方が、早口で通り一遍を説明すると、次に何を言ったものか言葉につまり、背の低い相棒に救いを求めるように目線を送った。眼鏡をかけた短髪の彼は、長身の若者よりも流暢に、余裕をみせて言葉をつないで説明を続け、次のワインへと移っていく。その部屋の重厚な調度に不似合いな、モダンで安っぽい照明器具が天井から下っている。きっと予算が足りなかったのだろうな、と思いながら、僕は彼らの処女作であるワインを試飲していた。

(ファン・フォルクセン醸造所。外壁にあるマリア像が、かつて修道院であったことを示している。)



彼らがヴィルティンゲン村にあるファン・フォルクセン醸造所を手に入れたのは、1999年末のことだった。トリアー大学
でワインのマーケティングについて研究していたローマン・ニエヴォドニツァンスキー−声を上ずらせて説明していた長
身の若者−は、調査の為にドイツやアメリカ、ニュージーランドの醸造所を巡り歩くうちに、次第にひとつの思い−あ
るいは野心と言ってもいい−を抱くようになっていた。自分でワインを造りたい。そして自分の力で、そのワインを販売
してみたい。それは、彼の研究の成果、マーケティング理論を実地に試すことでもあった。

幸い、彼の実家は裕福だった。母親はドイツ最大のビール・コンツェルンであるビットブルガーの創業者の娘で、父親
は重役の一人でロータリークラブ会員である。一家はエゴン・ミュラー醸造所の試飲会に毎年招待されるお得意様で
もあった。ローマンがザールのワインに関心を抱くようになったのも、学生だった頃、1975年産のシャルツホーフベル
ガーを1カートン、父親のコレクションからちょろまかして友人と飲んでしまったのがきっかけだったという。



1999年、彼はヴィルティンゲン村のファン・フォルクセン醸造所−当時の名前はヨーダン&ヨーダン醸造所−が財政的
に行き詰まり、売りに出ていることを知った。ヴィルティンゲン村ならエゴン・ミュラー醸造所にもほど近い。しかも、ファ
ン・フォルクセン醸造所といえば、20世紀初頭以来のVDP−ドイツで最上のワインの造り手だけが加盟を許される醸
造所組合−のメンバーで、シャルツホーフベルクの一部を所有し、1980年代末までその名声を保っていた名門であ
る。 .... いや、保っていたかどうか、意見の分かれるところかもしれない。

80年代末のファン・フォルクセン醸造所の凋落については、ヴィルティンゲンの村人からこんなエピソードを聞かされ
た。もっとも、村人の噂話程度のものだから、事実かどうかはあてにならない。

当時、醸造所の主人はトリアー大学の女子学生と恋に落ちた。よくある話だが、彼は隣村で同じく醸造所を経営する
親友と、結婚まで辿り着くかどうかで賭けをした。賞品は、相手の醸造所のワイン一樽。ワイン村らしいエピソードで
ある。賭けの結果は、フォルクセン氏の勝利。彼は年下の彼女とめでたくゴールインし、結婚は戦利品のワインで盛
大に祝われたという。ここで終われば、このエピソードもハッピーエンドなのだが、やがて数年を経ずして、破局が訪
れることになる。年の差の為か性格の不一致か、若妻は醸造所を去り、悲嘆にくれた夫はワイン造りへの気力を、し
ばらくではあるが失ってしまった。それが、醸造所の凋落の原因であるという。



こうして1989年に、ファン・フォルクセン醸造所は19世紀末からの歴史に、一旦幕を閉じることになる。その後地元の
資産家がオーナーとなったが、購入の翌年に早くも再び売りに出された。それをミュンヘンのコンピューター関連企業
出身のペーター・ヨーダン氏が購入し、醸造所の名前をヨーダン&ヨーダンJordan&Jordanと改名、先代のオーナー
であるフォルクセン氏が醸造を担当した当初は、それなりに評価の高いワインを造っていた。しかし1995年、醸造主
任の交代後ワインの評判が下がり、売れ行き不振と資金難から1999年産を最後に引退。そしてこの醸造所はまたし
ても売りに出されたのである。

これほどの短期間の間に何度も売りに出された醸造所を前にしたとき、普通の投資家ならば、そのリスクを考え、二
の足を踏むだろう。いかに伝統ある醸造所であり、最上の葡萄畑を所有しているとはといえ、多額の設備投資が必
要であるとともに、その経営が容易ではないことは、過去10年の経歴から容易に想像がつく。ヴィルティンゲン村の
中心にあるゴシック様式の教会と向かい合うようにして、およそ250年前から建っているイエズス会修道士の住まい
は、冗談まじりに呪われているのではないか、とささやかれていたかもしれない。

それにもかかわらず、醸造所購入に名乗りを上げた買い手が2人いた。カンツェム村のVDPメンバーであるフォン・オ
トグラーヴェン醸造所と、ビール醸造業のニエヴォドニツァンスキー家である。この競合に勝利を収め、概算で2,600,
000マルク−日本円でおよそ16億円−で主となったのが、ローマン・ニエヴォドニツァンスキーだ。30歳そこそこのボ
ンボンが、親に甘えて醸造所を買ってもらったのだ、醸造所経営はそんな甘いものじゃない、という声も聞いたことが
ある。しかし、ローマンに言わせると「他にどうしようもなかったんだ」という。例え醸造所の施設に多くの設備投資−
先代の所有者達が資金難から出来なかった事−が必要であっても、伝統ある醸造所だけに所有している葡萄畑は
最上のもので、古木がほとんどだった。彼のマーケティング理論に合致したワイン、つまり最上の畑の古木から、収
穫量を抑えてテロワールを反映した偉大な辛口ワインを造るには、理想的な前提条件がそろっていたのである。



こうして、ワイン醸造とは縁もゆかりもない家庭出身の若者が、伝統あるファン・フォルクセン醸造所のオーナーとなった。だが、醸造所の歴史をしらべるうちに、実は、意外なところで接点があることに私は気がついた。1899年、かつての修道院を購入し、醸造所を興した初代オーナーであるグスタフ・ファン・フォルクセンは、トリアーでビール醸造業を営み成功した人物なのである。先にも書いたように、ローマンもまた、いわばビールを生業とする家庭の出身である。この点で、ファン・フォルクセン醸造所の伝統に、彼は綺麗に収まる。いや、むしろ理想的な後継者と言ってもよい。

あるいはもしかすると、ファン・フォルクセン醸造所の再興を求める初代オーナーの魂が、ローマンをこの醸造所に呼び寄せたのではないか。ローマンには、この醸造所を再びVDPに加盟させ、昔日の栄光を取り戻すことが使命として与えられているのではないか。...なにやら怪談めいてきたが、それはともかく、彼の指揮のもとに、現在のファン・フォルクセン醸造所は、飛ぶ鳥を落とす勢いで成功している。
(左からローマン・ニエヴォドニツァンスキー氏、醸造主任のゲルノート・コルマン氏)



醸造所を入手した翌2000年が、新生ファン・フォルクセン醸造所初の収穫となった。しかし、天候は彼らに試練を与え
た。収穫期の長雨で、糖度がなかなかあがらないうえに、腐敗のリスクが大きく、モーゼルの多くの醸造所ではカビ
ネットクラスまでしか造れず、シュペートレーゼ以上の収穫をあきらめた。最初のリリースは、そうした難しい年になっ
てしまった。

その年、13haから32000本を生産。平均収穫量はわずか26hl/ha。同年のフリッツ・ハーグ醸造所の平均収穫量が
65hl/haであったことと比べてみると、その極端な低さがわかる。醸造所の建物や設備の補修から畑の農作業まで、
葡萄農家の出でないローマンには、全てが初めての体験だった。しかも、彼はこの時点では醸造学校に通ったことも
無い、ワイン造りに関しては一介の門外漢、全くの素人にすぎなかったのである。そんな彼の相棒が、ゲルノート・コ
ルマンである。年齢こそローマンよりもひとまわり若い20代後半だが、ハイルブロンの醸造専門高等学校出身の、い
わば若手醸造家だ。モーゼルの一流醸造所であるDr.ローゼンで研修後、トリアーのビショフリッヒェ・ヴァインギュー
ターで仕事をしていた時、あるワイン会でローマンと出会って、意気投合。以来、二人三脚が続いている。



その彼らが初めて造ったワインを、一般の顧客に紹介するという機会が、本稿の冒頭の光景である。しかし彼らはワ
インを紹介するだけではなく、造ってしまった32000本を、売りさばかなければならなかった。もしも彼らの新しいワイ
ンが市場に受け入れられなかったら、「そら、やっぱりね。」と、金持ちのボンボンの新しい道楽と斜に構えて様子を
見ていた人々の笑いものになってしまう。彼らは必死にならざるをえなかったのだ。ワインの説明で時々声が上ずっ
ていたのも、背負っていた重圧からすると当然かもしれない。倉庫に眠る、32000本のボトルの重みが、その背中に
ずっしりとのしかかっていたのである。

しかし幸い予想を上回る好調さでワインは飛ぶように売れて行き、12月末に
は完売してしまった。毎年の秋に出版されるゴー・ミヨのワインガイド2002年
版で、初リリースのワインでいきなり『今年の新発見醸造所』に選ばれ、ロー
マンのポートレートがガイドブック冒頭の1ページを飾った。このガイドブックの
編集者が執筆するワイン専門誌『アレス・ユーバー・ヴァイン』では、ローマン
のインタビューが記事になった。しかし、そこでの彼の応答が、かなり公式発
表ぎみの建前に終始していたのは、あるいはやむを得なかったのかもしれな
い。

翌2002年の2月、僕は再びファン・フォルクセン醸造所を訪れた。その時の彼
は、前回の彼とまるで別人の様に自信に満ちていたことに驚かされた。
「シャルツホーフベルガーのシュペートレーゼを、アメリカのワイン専門誌『ワイ
ン・スペクテイター』に送ってみたんだ。そうしたら91点もついてしまって、ちょ
っと驚いてるよ」と、まんざらでもなさそうに語っていた。誠心誠意、出来ること
はなんでもする、という態度は初めて会った時と変わっていなかったが、その
言葉の端々に、ギラギラとした野心が見え隠れしているような気がした。
(2003年5月、ゴー・ミヨの主催する試飲会に『今年の新発見醸造所』として出展。満面の笑顔だ。)



2回目のリリースである2001年産から、ワインのラインナップが少し変更された。初年にはリリースしていたロゼを廃
止、先代のオーナーが植えたシュペートブルグンダーとサン・ローランの赤用品種の畑を、リースリングの古木が植
わっている畑と交換し、100%白ワイン用品種(ヴァイスブルグンダーとリースリング)に注力。また、シャルツホーフベ
ルガーで造っていたカビネット、シュペートレーゼ甘口を廃止し、甘口は極甘口アイスワインを少量のみ、一般向けリ
ストから外した形で販売。そして、主力である辛口リースリングのラインナップを、ブルゴーニュを手本に4段階のヒエ
ラルキーに再構成した。

一番下のベースになるワインには、ザールの複数の村々の契約農家の栽培による葡萄を用いた中辛口ワイン『ザー
ル・リースリング』。その上にヴィルティンゲン村の複数の畑からの収穫を用いた『ヴィルティンガー・リースリング』。そ
して畑名つきの『ヴィルティンガー・ラーゲン・リースリング』(Wiltinger Braunfels, Wiltinger Schlangengraben,
Scharzhofberg)、一番上がグラン・クリュに相当する『グローサー・ラーゲン』(Wiltinger Klsoterberg, Wiltinger
Gottesfuss, Wiltinger Kupp, Wiltinger Braunfels "Vols", Scharzhofberger "Pergentsknopp", Wiltinger
Gottesfuss "Alte Reben")という構成である。

いずれのカテゴリーでも30hl/ha前後の低収穫量は変わらない。違いはもっぱら葡萄の木の樹齢、土壌のもたらす風
味である。また、QbA, QmPの肩書き表記、およびtrocken, halbtrocken, feinherbといった甘みの表記も行っていな
い。アイスワイン以外は、全てほどよい甘みを残した辛口ぎみのワインである。

2000年のスタート当初には13haの畑から約32000本を生産していたが、2001年産は自家所有する14haからの約
56000本に加えて、契約農家による9haの葡萄畑の収穫から約70000本、合計約126000本をリリースした。これも次
のビンテージのリリースを待たずして、早々に売り切れた。2002年産はヴァイスブルグンダーの古木の植わった畑を
1ha買い足し、およそ15haと契約栽培の9haから合計約120000本をリリース。畑面積の増加にもかかわらず生産量
がやや落ちているのは、それだけ収穫時の雨でセレクションを厳しくせざるを得なかった為だろう(2001年平均収穫
量35hl/ha, 2002年 32hl/ha)。2002年には、隣村のカンツェムにある古木の植わった畑2haを購入、所有する畑面
積を毎年着実に増やしている。



2003年8月29日。醸造所で開催される新酒試飲会も、これで三回目をむかえた。平日の金曜日にもかかわらず、醸造所の居間は訪問客でごったがえし、ローマンもコルマン氏も接客でおおわらわの様子だった。しかし、その落ち着いた応対の様子は2年前とはまるで別人のように見える。ローマンはこの間トリアーの醸造専門学校に通い、一通りの専門知識を身につけ、3年間の実地経験も積んだ。もはや顧客を前に声が上ずることも無く、研修に来ているガイゼンハイム醸造専門高等学校の若者に指示を出しながら、相変わらず誠心誠意といった態度で、熱心にワインの説明を続けていた。

2002 Van Volxem Saar Riesling
ヴィルティンゲン近郊の村々−オックフェン、カンツェム、ザールブルグ、ゼーリヒ、ヴァヴェルン−に位置する、最低25
歳以上の葡萄の木が植えられた畑を持つ栽培農家と契約し、仕立て方を細かく指示して得られた収穫を、ファン・フ
ォルクセン醸造所にて醸造したワイン。残糖分18g/Lと、やや甘めの中辛口。シュペートレーゼからアウスレーゼレベ
ルの糖度まで熟した果汁からのワインは、クリーミーで濃厚。グレープフルーツ、青リンゴ、アプリコットのヒント、白い
花の香り、ザールらしいミネラル感、アフタはやや短め。醸造所の生産量の約過半数を占めるこのワイン、ドイツ国内
の一般向け直売価格は7ユーロである。コストパフォーマンスは非常に高い。

2002 Weissburgunder
辛口のザール産ヴァイスブルグンダー。急斜面のシーファー土壌に植えられた、樹齢の高い木からのアウスレーゼレ
ベルまで熟した収穫を、500リッターの木樽で醸造。クリーミーではあるが、試飲の段階ではまだ閉じて硬い。アフタ
に凝縮したフルーツ感が残り、ポテンシャルを示していた。残糖分は6g/L。2001年産が中途半端に甘かったのに比
べると、かなり良くなっている。

2002 Wiltinger Riesling
醸造所が所有するヴィルティンゲンにある3つの単一畑−ブラウンフェルス、クップ、ゴッテスフース−からの収穫をブ
レンドした辛口。残糖分10g/L。香りはやや大人しいが、完熟した黄色いフルーツ、パイナップル、木炭のヒント。力強
いと同時にエレガントでクリーミー、ミネラルも繊細、桃の甘みの余韻が残る。

・ヴィルティンガー・ラーゲン・リースリング
2002 Wiltinger Braunfels Riesling
シャルツホーフベルクと同じ斜面の西隣に広がる畑。シーファーに由来する木炭の香りが明確で、ニュアンスに富ん
だ複雑な香り、白い花のヒント。味は濃厚、酸とミネラルがくっきりとして中身が詰まっている。やや硬く閉じ気味で、
アフタに凝縮したフルーツ感が残る。残糖8.5g/L。

2002 Wiltinger Schlangengraben Riesling
オレンジのフルーツ感がはっきりとした、コンパクトにまとまった濃い目の、どこかしら素直な印象を受けるワイン。香
りはやや控えめだが、洋ナシとウィスキーに漬けたオレンジのヒント。残糖分は12-18g/L。樹齢は10歳と若いが、今
回初めて葡萄の果皮に付着した自然酵母で発酵。その結果、2001年産よりもひとまわりがっしりとした印象のワイン
に仕上がっている。

2002 Wiltinger Klosterberg Riesling
軽やかに広がる香りは、若々しく繊細でやわらか。やや小柄でコンパクトなボディに詰まった、凝縮したフルーツには
アプリコット、グレープフルーツ、青リンゴのヒント。今回のラインナップの中では、一番繊細に思われた。残糖分12-
18g/L。

2002 Scharzhofberger Riesling
この醸造所はシャルツホーフベルグの中にある『ペルゲンツク
ノップ』と伝統的に呼ばれていた、小さな区画を持っている。そ
ちらはもう一段階上級の畑のカテゴリーに含めてリリースし、こ
ちらを単なる畑名ワインとしている。複雑な香りにフルーツとミ
ネラルが交錯し、素晴らしい調和。洋ナシ、黄色いフルーツの
ヒント。味も複雑で、完熟した黄色いフルーツ感がくっきり、洋
ナシ、グレープフルーツなど。酸味は丸く、アフタに凝縮したフ
ルーツ、ミネラル。
(写真は夏のシャルツホーフベルク)

・グローサー・ラーゲン
2002 Wiltinger Klosterberg "Millichberg" Riesling
ヴィルティンガー・クロスターベルクの中で最も急で、ブラウシーファー層の深い特別な一角を、昔は『ミリヒベルグ』と
呼んでいた。2001年早春、所有者がせっかくの古木を抜きはじめ、15本抜いたところを、ファン・フォルクセン醸造所
が購入。古木の大部分はこうして生き延びた。シーファーの香りがまっすぐに飛んでくる、広がりのある黄色いフルー
ツの豊かなアロマ、洋ナシのコンポートに少しだけ玉ねぎのヒント。味もしっかりしたミネラルとフルーツ感、中身の詰
まったボディ、アプリコットのヒント。アフタに乾燥フルーツのしっかりした味わいが長く残る。

2002 Wiltinger Gottesfuss Riesling
この醸造所のこの畑のワインには2種類ある。一方は「普通の」ゴッテスフースで、樹齢60歳の古木からの収穫を用
いたもの。それがこのワインで、もう一方は「アルテ・レーベン」−フランス語だとヴィエイユ・ヴィーニュ−と呼んでい
る、樹齢120歳(!)の超古木からの収穫を用いたもの。この普通のゴッテスフスの印象からすでに、素晴らしいもの
がある。広がりと奥行きのある複雑な香り、ミネラルとフルーツが渾然一体となった印象に、パイナップル、桃、青リン
ゴのヒント。クリーミィで濃厚、完熟したオレンジ、青リンゴのヒント、力強い。アフタにこってりしたミネラルと乾燥フル
ーツが長く残る。

2002 Wiltinger Kupp Riesling
ザール河が鋭く湾曲するあたりに位置する、南西向きの斜面に広がる畑。完熟からやや過熟した黄色い柑橘とミネ
ラルのヒント、明確に個性を主張しているゴージャスでバロックな印象の香り。味は今のところ小柄にまとまっており、
完熟したフルーツとミネラルは魅力的だが、アフタは中くらい。

2002 Wiltinger Braunfels "Vols " Riesling
シャルツホーフベルクと同じ斜面で、シャルツホーフベルクとの境界に程近い、斜面の真ん中ほどに位置する小さな
区画だが、1971年以前は単一畑として認められていた。現在のドイツワイン法では"Vols"までラベル上で名乗ること
は許されていない。かつてケッセルシュタット醸造所が中辛口を意味する『ハルプトロッケン』halbtrockenという言葉
を嫌って、『ファインハーブ』feinherbという表記を独自に行った結果裁判にまで発展したが、それと同じリスクをこの醸
造所はあえて買って出ている。広がりのある香りは複雑でしっかりしており、濃厚で力強い。フルーツとミネラルの塊
と呼びたい味だが、すべてをさらけ出すにはまだ時間が必要。残糖7g/Lの辛口。

2002 Scharzhofberger "Pergentsknopp" Riesling
これも単一畑シャルツホーフベルクの中の小さな一区画。ラベル上で『ペルゲンツクノップ』まで表記するのは、本来
ご法度。クリアで明るく広がる様な印象の、エレガントで複雑な香り。クリーミィで濃厚、完熟した南国のフルーツ、完
熟した洋梨のヒント、非常に長いアフタ。極上のアウスレーゼの香りを持つ。

2002 Wiltinger Gottesfuss "Alte Reben" Riesling
樹齢120歳−フィロキセラ到来以前に植えられた、接木をしていない葡萄の木からの収穫を用いたワイン。これほど
の古木になると、実がなっても小粒で、生産効率は非常に悪い。しかし他を持って換えがたい、奥ゆかしい深みがあ
る。調和がとれて穏やか、チャーミングな酸味の濃厚なフルーツ、しなやかでキメの細かいミネラル、緻密なフルーツ
感を伴う長いアフタ。大人しいのに深い、不思議な味。

2002 Scharzhofberger Riesling Eiswein 
唯一の甘口、生産量500リットル、ハーフボトルで140Euroという高価な希少品。凝縮して濃厚、アイスワインらしい香
りとともに干し葡萄、蜂蜜、漢方薬のヒント。クリーミーで濃厚、完熟した柑橘の酸味、アフタも非常に長いが、少し湿
った木樽の香りがする。ボトル差によるものなのか、それとも樽香がワインに移ってしまったのかわからないが、価格
を考えると避けたほうが無難かもしれない。



新酒試飲会を後にするとき、「今後のご成功をお祈りしています。」と挨拶すると、ローマンは笑顔でうなずきながら、
「今年は昨年にも増して、僕たちには成功が必要だよ」と、まるで独り言のようにポツリと言った。

2002年は10月から11月にかけて雨が多く、特にザールでは難しい年だった。雨の合間を縫いながらも、11月上旬ま
でに収穫を終えた造り手は健全な収穫を手に入れたが、天候の回復を期待して遅摘みに賭けた造り手は、裏目に
出た。11月中旬を通じて雨は止まず、糖度は上がらず、腐敗が広がった。そしてファン・フォルクセンは、遅摘みに賭
けた醸造所のひとつだった。「あれは、傍目にも無謀な賭けだったね」と、近隣の村のある造り手は語っている。

そしてまた、今年2003年の夏は記録的な猛暑で、1949, 1959, 1976に匹敵する
か、それよりも過酷な日照りと雨不足に見舞われた。ヴィルティンゲンへ向かう列
車の車窓から見えたゴッテスフースの畑は、遠目にも黄色く枯れた葉が目に付き、
おそらく少なからぬ数の房が、日焼けで干からびている様子だった。

難しい年だった2002年と、酷暑を乗り越えたとはいえ、これからが正念場を迎える
2003年。ローマンが成功を切に願うのも、当然といえる。

素人の感覚には、2002年産はなかなかいい出来だと思う。2002年よりも困難な
2000年で成功しているし、2002年産はそれより悪い出来では決して無い。しかし
ワインをサーブするときに「これは、昨日瓶詰めしたばかりだから、ちょっと変かもし
れない」と、言い訳気味に言葉を添えていたのが、問題の多かった収穫の成果に
対する、ローマンの不安の現れであったようにも思われる。
(2003年8月上旬のザールの葡萄。この時点からさらに約2週間雨が降らなかった。)



彼が成し遂げつつあるファン・フォルクセン醸造所の再生は、ザールのワインに新たな息吹を吹き込んでいる。手間のかかる割には採算がとれず、栽培をあきらめる農家が増えるばかりだった状況の中で、彼は着実に葡萄畑を買い足し、生産量を増やし続けている。さらに契約栽培農家を用いることで、高品質なワインを造るための栽培ノウハウの普及と、彼らの収入の安定化に貢献している。新生ファン・フォルクセン醸造所の成功は、これまでどの醸造所も成し遂げ得なかった、大きな変革−ひとつのルネッサンス−をザールに起こしつつある。
(ザールの葡萄畑の春)

彼の成功の一つの要因は、固定観念に縛られていなかったことだろう。一介の素人で、醸造学校にも通わず、自由
な発想でコンセプトを打ち出すことが出来たこと。それは、契約栽培農家に彼の低収穫量を目指した栽培方法と指示
を伝えたとき、「こんなやり方は馬鹿げているし、聞いたことも無い」という少なからぬ抵抗にあったことからも伺える。
もう一つの欠かせない要因は、やはり豊富な資金力である。設備投資と宣伝広報に加え、需要に応えつつ収益をあ
げるには、優れた葡萄畑を買い足していかねばならない。今年購入した2haのカンツェマー・アルテンベルクの畑にし
ても、推定で2,500万円以上の資金を必要としたという(もっとも、畑は母親から彼に送られた誕生日プレゼントだった
という説もある)。また、彼が社交界にもつ人脈も、少なくとも立ち上げ当初の成功に寄与していると思われる。

しかし、いずれにしてもまだ3年目である。ドイツを代表するワインガイドであるゴー・ミヨやアイヒェルマンの評価はま
だ5つ星満点でそれぞれ二ツ星と三ツ星にすぎないし、この先も成功を続けて評価を高め、定着させるには、まだ数
年はかかるだろう。ひとつの好材料は、ロバート・パーカーの主催するThe Wine advocate Issue 144で、2001年産
のザール・リースリング−この醸造所の最も低価格のワイン−が、同じカテゴリーのドイツワインの中で最高の評価を
獲得したことである。

一介のワイン好きの若者達の挑戦が、いまや、ザール全体に影響を及ぼしつつある。この1000年以上の伝統を持つ
ワイン産地の明日は、ファン・フォルクセン醸造所の継続的な成功にかかっている。そう言っても過言ではないかもし
れない。

(2003年9月)

Weingut Van Volxem
Dehenstr. 2
54459 Wiltingen/Saar
Tel. +49(0)6501 16510
Fax.+49(0)6501 13106
http://www.vanvolxem.de
vanvolxem@t-online.de


 



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